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未来が屈してしまわぬように

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堀田季何句集 『人類の午後』(邑書林)の書評。 中部短歌会会誌「短歌」令和四年八月号掲載。ブログへの転載許可取得済み。 http://youshorinshop.com/?pid=161752774

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「雨」 レイモンド・カーヴァー作/須藤岳史訳 今朝、目がさめたとき 無性にこのまま一日中ベッドにいて 本を読んでいたいと思った。しばらくそんな気分と闘った。 それから窓の外の雨を見た。 そして降参した。この雨の朝にすっかり 身を任せちまおう。 おれはこの人生をまたもう一度生きるんだろうか? また同じ許されない過ちを犯しちまうんだろうか? うん、確率は半分だ。うん。 Rain Raymond Carver Woke up this morning with a terrific urge to lie in bed all day and read. Fought against it for a minute. Then looked out the window at the rain. And gave over. Put myself entirely in the keep of this rainy morning. Would I live my life over again? Make the same unforgivable mistakes? Yes, given half a chance. Yes. From: Where Water Comes Together with Other Water (1985)

失われた句意を求めて

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三橋敏雄アルバム より(リンク引用) ミステリにときおり登場する安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)。 現場に赴くことなく、与えられた情報のみで事件を解決するあれだ。 安楽椅子探偵という用語は、実際には旅行には出かけず、ガイドブックを読んだり、時刻表を眺めたりして旅の気分を味わうarmchair travelerという語から派生したという話もある。 前にこんなツイートを見かけて、出来心で 謎解き遊び をしたことがある。とりあえずネットで調べられる情報をもとに、ちょっとした推理をしてみた。 花火の夜椅子折りたたみゐし男/三橋敏雄『青の中』 この句は池田澄子のエッセイで知って以来(彼女は60代以降の三橋敏雄に私淑のち師事していた)、自分にとってなにかが起きているのにそれが何であるのか他人に指差すことができない句としてずっと頭中にある。 — りんてん舎──詩、短歌、俳句の古本屋 (@rintensha) November 10, 2021 まず、句そのものを検索してみると、この句は三橋敏雄が『風』三号(昭和12年8月)に寄せた「ある遺作展」という連作の一部だということがわかった。 大井恒行の日日彼是 「真の芸術はやがて真の自由主義に胚胎する」・・・3 (2015年1月27日火曜日)より以下に孫引きしてみる。 ***ここから*** ある遺作展                            三橋敏雄        遺作展階を三階にのぼりつめ       遺作展南なる窓ひとつ閉づ     帽黒き人と見たりし遺作展     遺作展階下ましろく驟雨去る          動物園      園茂り午後のジラフの瞳を感ず     人間や河馬の檻には立ち笑へり     ふきあげの見えゐる象の後足なり          〇      招魂祭とほく来りし貌とあり      花火の夜椅子折りたたみゐし男     指先の風にとまりし悍馬なり     回転ドアめぐればひとがひかりゆき ***ここまで*** 敏雄は当時17歳。まだ若いし、同人になってからまもないということで、つくりたての自信作を出したのではないかと見当をつける。 そこで、昭和12年に開催された遺作展を検索してみると、古書目録の 目次 に「満谷国四郎遺作展・佐伯祐三遺作展」という項目が見つかった。 佐伯祐三遺

忘れられたラプソディ(あるいは蛇)【改稿】

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先日のブログ で、夢に繰り返しあらわれるモチーフについて書きました。今日は、それに関連した掌篇の一部をご紹介します。 忘れられたラプソディ(あるいは蛇)【改稿】 須藤岳史  あいつがやって来るのはきまって日中だ。だから、あいつには目がないのかもしれない。あいつの質量が夜のそれと同じくらいなのも、夜には出歩かない理由なのかもしれない。  それと、あいつがやって来る引き金となるのはいつも音だ。とくに音がよく響く場所、たとえば幼稚園の屋内プールだとか、小学校の体育館だとか、そういった場所はあいつの格好の住処となっている。実体を得るには、入り込むためのうつろな空間が必要なのだ。  その到来の仕方はゆるやかだ。しかし、いつも「そろそろ来るな」という予兆がある。周囲に溢れる子供たちの声が混ざり始め、近い周波の声が溶け合い、一本の線となる。その線にとらわれないように、私は別の音色の声の線を紡ごうとする。集まった線は独自の対位法により時間の流れのなかに配置され、ポリフォニーを生む。音楽は、私が紡ごうとしていた線を圧倒し、その音響のなかからあいつはやって来て、私の音楽の時間を止める。  流れを阻害された音楽は時間のある一点に集約され、そこでこだまする。その響きに押しつぶされるようにして空間が歪む。そして止まった時空の中で、目の前の光景がすでに知っている質感として再生される。そこでは視覚は聴覚に追従する。  季節は夏で、私は園庭にいて、目の前にはスイカがある。ひとりの子供が手ぬぐいで目隠しをされ、棒を持って立っている。私はその子供がどういう風に動くのかを、そして振り下ろされた棒の一閃がスイカをぐしゃりと潰すことを知っている。破壊への無邪気な決意を持って。  プールでもそうだ。音が一点に集約されて溢れ出すとき、一人の子供が溺れることを知っている。そういえば、その頃、別の小学校の知らない子供が行方不明となって、数日後に低い土地の暗い林に囲まれた貯水池で発見された。誰かに落とされたのか、それとも自分で落ちてしまったのかはわからないけれど、とにかく子供は冬の冷たい水の中で死んだ。  はじまりを知らずに再生(リプレイ)される光景のなかでは、貯水池はダムのような深い水の上に伸びる堤防か、あるいは水門のようなコンクリートの飛び石に置き換わっていて、目の前でその子供が落ちる。私は飛び込んで助けるかどう

飛べるの飛べないの?

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Yves Klein,  Saut dans le vide,  1960 ときどき空を飛ぶ夢を見るらしい。 で、どうやって飛ぶの?と訊いてみたところ、早歩きをしているうちに、足が少しずつ浮きはじめ、気づいたときには飛んでいるのだ、とうちのひとはいう。 私は、夢を見ることや夢を覚えていることがほとんどない。それでもたまに見る夢に繰り返しあらわれるモチーフがあって、それは水にまつわるもの(高波から逃げたり、誰かが水の中に落ちたりする)と人家の地下にあるらしい深い井戸(部屋?)に関するものだ。さまざまなヴァリエーションがあるとはいえ、そこに刻印された気分は共通している(ような気がする)。 ボルヘスは、あらゆるプロットはおそらく少数のプロットに帰着するのではないかといっていた。ほとんど無限ともいえるプロットの変奏は、プロットがみている夢なのかもしれない。 * リビングルームの正面の街路樹にいつのまにか鳩が巣を作り、卵を温めている。窓からほんの5メートルくらい先なので、室内からも様子がよく見える。鳩もこちらの視線を意識しているようなので、安心して卵をあたためられるよう、ここ数日、昼間はうすいレースのカーテンを閉めっぱなしにしてしている。 そして、家の屋根にもカモメが巣を作りはじめているみたいで、作りかけの巣のパーツがバルコニーに落ちてきたりする。建物の管理組合のみんな(といっても4世帯だけだけど)と相談した結果、カモメのご夫婦には、巣作りと子育てをこのままつづけていただいて、こちらはあたたかく見守ろうではないかということになった。どうせすぐ下は、(上の階の家の)物置になっている屋根裏なので、騒音も気にならない。ただし、毎日バルコニーを掃除しないとたいへんなことになりそうだ。 去年の夏は、反対側の家の屋根でカモメが子育てをしていた。よちよち歩きをはじめたばかりのカモメのひなたちが屋根の周りをうろうろしていて、いまにも落ちてしまうのではないかと心配したことを覚えている。 前に小津夜景さんの ブログ で読んだのだけど、街なかではカモメは害獣とみなされ、駆除の対象になったりもするらしい。駆除の方法はたまごに青い絵の具を塗るというもの。なんでも、 絵の具を塗られた卵は孵化しないとか。ほんとうかどうかは知らないけれど。 こんな抜書きを見つけた。引用元URLはサービス終了となっており、文

過不足なしの

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日本を離れて20年以上になるので、長いこと見かけていないのだけど、この季節になると中華料理店に張り出される「冷やし中華はじめました」というあの文面がたまらなく好きなんです。過剰も不足もない、なんと簡潔な表現!この張り紙を見ると、とくに冷やし中華が好きというわけでもないのに、ついつい注文してしまいます。 というわけで、「ブログはじめました」。ここでは、オランダでの日々の雑感や読んだ本の話などを綴っていきたいと思います。そして、発表済みだけど入手しにくい書き物、新しい書き物、オランダや旅先でのスナップも。 どうぞよろしくお願いします。 写真:モンテ・アルジェンターリオ(イタリア)2021年7月

時間と形をめぐる眺め

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時間と形 をめぐる、ごく個人的な眺めがある。 土器の破片。子供の頃、古墳時代の遺跡のそばの沼地で遊んでいたときに見つけた。ちょうど手のひらに載るくらいの大きさで、ひも状の模様がつけられていた。破片の一つには赤い色のあとも残っていた。家に持ち帰って、水で洗い、ガーゼを敷いた箱の中に収めた。 小さな破片であるが、遥か昔と今が一気につながったような気がした。 往古が手のひらの上で今に蘇った 。そんな驚きに包まれながら飽きもせず眺めた。破片は、学校の教師に「そういうものを個人で持っているのは違法だ」と言われて、学校へ寄付してしまった。ほんとうにそうなのかどうかは知らないけれど。 * 破片は破片であるがゆえに、もう知ることのできない 失われた部分の存在を際立たせる 。破片の端は多義的な世界へと常に溶け出している。 目に見えて、そこにあるものとは反対に、暗示的なものには形がない。 形とは時間の痕跡 であり、それが伸びていった限界点を示す。そうすると形の外は非時間的な領域とも言える。 * 形が世界の薄明へと溶け出す部分に時間はない。 「 一房の藤の垂り花夜の底の地中にふかく伸び入りにけり 」( 齋藤史『ひたくれなゐ』より) 夜の闇の中の藤はまるで地中を覗いているかのように見える。 垂れ下がる藤の先端は闇へと溶ける。時間の経過の中で咲く花と闇とのあわいを見ていると、どこからが時間的なものでどこからが時間の支配の外にあるのかがどんどんあいまいになってゆく。   円山応挙『藤花図』(部分) ロマン派の音楽の長いフレーズに比べて、古い音楽はより断片的である。 フランスの古典音楽。サント=コロンブやマラン・マレ、フランソワ・クープランの音楽は多くの断片で構成されている。ひとつのフレーズは語りの呼吸であり、たった一言、あるいは一瞬の溜息や喘ぎ、笑い、叫びなどのより 未文節な声 に溢れている。数個の音で構成される一つのアルトから、別の数個の音の連なりのバスのうごめきが、一つの楽器から次々と生まれ、消滅しながら音楽が立ち上がる。 サント=コロンブ「プレリュード」手稿譜 1680年頃 長いものは 均質さを志向する 。あるいは圧倒的な情感を押し付ける。反対に断片は、それを見るものの中で欠けている部分の再構成を促す。ボルヘスが言ったように、 人間の心理には断定に対して、それを否定しようとす