忘れられたラプソディ(あるいは蛇)【改稿】




先日のブログで、夢に繰り返しあらわれるモチーフについて書きました。今日は、それに関連した掌篇の一部をご紹介します。


忘れられたラプソディ(あるいは蛇)【改稿】

須藤岳史


 あいつがやって来るのはきまって日中だ。だから、あいつには目がないのかもしれない。あいつの質量が夜のそれと同じくらいなのも、夜には出歩かない理由なのかもしれない。

 それと、あいつがやって来る引き金となるのはいつも音だ。とくに音がよく響く場所、たとえば幼稚園の屋内プールだとか、小学校の体育館だとか、そういった場所はあいつの格好の住処となっている。実体を得るには、入り込むためのうつろな空間が必要なのだ。

 その到来の仕方はゆるやかだ。しかし、いつも「そろそろ来るな」という予兆がある。周囲に溢れる子供たちの声が混ざり始め、近い周波の声が溶け合い、一本の線となる。その線にとらわれないように、私は別の音色の声の線を紡ごうとする。集まった線は独自の対位法により時間の流れのなかに配置され、ポリフォニーを生む。音楽は、私が紡ごうとしていた線を圧倒し、その音響のなかからあいつはやって来て、私の音楽の時間を止める。

 流れを阻害された音楽は時間のある一点に集約され、そこでこだまする。その響きに押しつぶされるようにして空間が歪む。そして止まった時空の中で、目の前の光景がすでに知っている質感として再生される。そこでは視覚は聴覚に追従する。

 季節は夏で、私は園庭にいて、目の前にはスイカがある。ひとりの子供が手ぬぐいで目隠しをされ、棒を持って立っている。私はその子供がどういう風に動くのかを、そして振り下ろされた棒の一閃がスイカをぐしゃりと潰すことを知っている。破壊への無邪気な決意を持って。

 プールでもそうだ。音が一点に集約されて溢れ出すとき、一人の子供が溺れることを知っている。そういえば、その頃、別の小学校の知らない子供が行方不明となって、数日後に低い土地の暗い林に囲まれた貯水池で発見された。誰かに落とされたのか、それとも自分で落ちてしまったのかはわからないけれど、とにかく子供は冬の冷たい水の中で死んだ。

 はじまりを知らずに再生(リプレイ)される光景のなかでは、貯水池はダムのような深い水の上に伸びる堤防か、あるいは水門のようなコンクリートの飛び石に置き換わっていて、目の前でその子供が落ちる。私は飛び込んで助けるかどうかを数秒間考えていて、その一瞬のためらいのうちに、子供は無表情な顔をこちらに向けたまま、足の方から深い水底へまっすぐ静かに落ちていって、すぐに深みどり色の水に隠れて見えなくなる。見えなくなる瞬間、その子供の顔が娘の顔になって、大声を上げて飛び起きる。こちらは夢だ。

 とにかくプールで溺れる子供と貯水池で死んだ子供と娘の顔が混線しはじめる。あれは娘だったのかもしれないのだ。コップに注いだ冷たい水を一息で飲み干し、寝床に戻る。しかし夢の質感がしぶとく憑きまとい、なかなか眠ることができない。そういうふうにして、あいつは、現実を侵食する。音のない夜ふけに。

 少し別の話をしよう。

 最初に私を悩ませたのはスサノオという音とヤマタノオロチという音だ。話の流れからするに、スサノオというのは人の名であり、ヤマタノオロチは八人の娘のうち、すでに七人までを飲み込んだ八頭八尾の蛇らしい。「スサノオ」という風を孕んだ子音に頭部を委ねた名には、風の切れ味があって、剣を持つ者の名としてふさわしいということと、アとオの音でもって支えられた「ヤマタノオロチ」という名は、まさに大地に張り付いた蛇そのもののようだという音感のイメージだけがまずある。しかし、この言葉からスサノオの顔はみえてこないし、ヤマタノオロチと呼ばれる怪物がいったいどのくらいの大きさなのか、どんな皮膚をしていて、どんな匂いを放っているのかを推し量ることはできない。なぜなら私はその姿をみたことがなかったからだ。

 小さな子供にとっては、対象がいつも最初にあり、あとから名がやって来る。しかし、シンプルな物語の経験を通して、つまり音の羅列から意味への分節、そして構造化という物語の成り立ちを知ることを通して、子供は言葉を獲得する。

 鏡像でもって己を認識し、それが信頼する誰かによって保証されるとき、それまでばらばらであったパーツが一つになる体験をする。その後、まず見出すのは名前だ。自分の名前、パパやママという称号、髪の長い人がオンナという属性であり、髪の短い人がオトコと呼ばれていること(しかし髪が短いのに胸が大きな人もいて、それは私を混乱させた)。

 身の回りの具体的な対象の名がまず初めにあり、動きを表す言葉はもっとあとになって獲得される。音の羅列が意味を獲得するとき、つまり言葉を手にしたとき、人はモノに名をつけるだけではなく、名からモノを知ることができるようになる。

 既視感というのは、この時間軸の倒錯による混乱と関連しているのではないだろうか? 言葉のはたらきは、時間軸に規律を生む。その時間軸のなかにおいてだけ、名付けられたものは存在を許される。モノから名という順の時はシンプルだ。名を知る前に、その存在が感覚を通して保証されているからだ。しかし、名のみを通して未見の存在を知るとき、言葉によって獲得された時間軸が乱れる。だから、名から存在へという順の軋みを瞬時に訂正する必要が出てくる。その最中に「知っているかもしれないあいつ」がやってくるのではないか? そう思いはじめて以来、あいつはどこかで静かに息を潜めている。

(つづく)


初出:『コドモクロニクル』(惑星と口笛ブックス)2020年3月11日

改稿:2022年5月20日


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