「真似ぶ」ことについて(『なしのたわむれ』補遺)

 


『なしのたわむれ』(素粒社)にこんなことを書いた。


呼吸といえば、音楽に関する印象的な経験があります。オランダの王立音楽院に入学して最初のヴィオラ・ダ・ガンバのレッスンの時です。レッスンに持っていった曲は、師匠の録音を何度も繰り返し聴いた曲でした。録音で知っている曲が、すぐ目の前でどういうふうに演奏されるのかを知りたかったからです。

 一度目を弾き終えてから、今度は曲の頭から再度演奏をして、時々師匠がコメントを挟みながら進行するというスタイルだったのですが、師匠はフレーズの間合いをすごく長くとっていることにまず気がつきました。この日は、最初のレッスン日ということもあり、他の学生たちもマスタークラスさながらに互いに聴講しあっていたのですが、師匠が求める間の長さに一同驚きを隠せない様子でした。その様子を見て師匠は「ほら、鳴っている音をもっとよく聴いてごらん。まだ次に移るには早すぎる。響きを楽しんで」と微笑みながら言ったのです。

 音楽の教師には言葉で説明するタイプと実際に弾いて教えるタイプがいるのですが、師匠は完全に後者のタイプで、レッスンの半分くらいは自ら弾いて「こういうふうに」と示すいわば「口伝」のスタイルでした。最初のレッスン、そして健全な競争心にあふれた同級生の前での演奏ということで、すべての学生が「うまく弾こう」「華麗に弾こう」と思いながら演奏していたと思うのですが、私たちはそれが誤りであることにすぐに気がつきました。

 音を楽しむこと、響きを慈しむことは聴く行為を一段高いところへと引き上げます。すぐに、私たちは小手先でうまく弾くことを忘れて、師匠が手招きをする響きの庭へと連れ出されました。それからは、いままでの癖や見栄や競争を忘れて、小さな子供が大人の発する言葉を真似ながら言語を習得するように、師匠の呼吸に自らの呼吸を同調させる稽古が始まりました。音楽のレッスンとは、理論やスタイルを学ぶことや技術を学ぶことの前に、呼吸を「真似ぶ」ことが重要なのだと、否応なしに納得させられました。

——『なしのたわむれ』 第21信「間の呼吸」より


真似びから始めることには思わぬ効果がある。

たとえば、師と同じ音をだそうと、レッスンで試行錯誤を重ねるうちに、あ、今のはOKかもと感じる瞬間がある。

家に帰り、その時の感覚を思い出しながら、あれこれ工夫していくうちに、思いがけないことがおこる。

出発点は同じ音だったはずなのに、そこからはじまる修練は新たな景色を連れてくる。自分独自の何かが生まれてくるのである。

ひとりひとりの体つきも手のかたちも違う。 真似た音と、自分だけが持つさまざまな制約のあいだの「ずれ」が、新しい方向に向かって成長をはじめるのだ。



小津夜景/須藤岳史『なしのたわむれ』(素粒社)

https://soryusha.co.jp/books/008_nashinotawamure_910413051/


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