時間と形をめぐる眺め
時間と形をめぐる、ごく個人的な眺めがある。
土器の破片。子供の頃、古墳時代の遺跡のそばの沼地で遊んでいたときに見つけた。ちょうど手のひらに載るくらいの大きさで、ひも状の模様がつけられていた。破片の一つには赤い色のあとも残っていた。家に持ち帰って、水で洗い、ガーゼを敷いた箱の中に収めた。
小さな破片であるが、遥か昔と今が一気につながったような気がした。往古が手のひらの上で今に蘇った。そんな驚きに包まれながら飽きもせず眺めた。破片は、学校の教師に「そういうものを個人で持っているのは違法だ」と言われて、学校へ寄付してしまった。ほんとうにそうなのかどうかは知らないけれど。
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破片は破片であるがゆえに、もう知ることのできない失われた部分の存在を際立たせる。破片の端は多義的な世界へと常に溶け出している。
目に見えて、そこにあるものとは反対に、暗示的なものには形がない。形とは時間の痕跡であり、それが伸びていった限界点を示す。そうすると形の外は非時間的な領域とも言える。
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形が世界の薄明へと溶け出す部分に時間はない。
「一房の藤の垂り花夜の底の地中にふかく伸び入りにけり」( 齋藤史『ひたくれなゐ』より)
夜の闇の中の藤はまるで地中を覗いているかのように見える。
垂れ下がる藤の先端は闇へと溶ける。時間の経過の中で咲く花と闇とのあわいを見ていると、どこからが時間的なものでどこからが時間の支配の外にあるのかがどんどんあいまいになってゆく。
円山応挙『藤花図』(部分)
ロマン派の音楽の長いフレーズに比べて、古い音楽はより断片的である。
フランスの古典音楽。サント=コロンブやマラン・マレ、フランソワ・クープランの音楽は多くの断片で構成されている。ひとつのフレーズは語りの呼吸であり、たった一言、あるいは一瞬の溜息や喘ぎ、笑い、叫びなどのより未文節な声に溢れている。数個の音で構成される一つのアルトから、別の数個の音の連なりのバスのうごめきが、一つの楽器から次々と生まれ、消滅しながら音楽が立ち上がる。
サント=コロンブ「プレリュード」手稿譜 1680年頃
長いものは均質さを志向する。あるいは圧倒的な情感を押し付ける。反対に断片は、それを見るものの中で欠けている部分の再構成を促す。ボルヘスが言ったように、人間の心理には断定に対して、それを否定しようとする傾きがある。しかし反対に、ただ語られること、あるいは仄めかされることにより、自分で見出した(と信じる)ものに対しては好意めいたものが生まれ、ガードが目に見えて甘くなる。人間は、みずから見出し、腑に落ちたと感じるものだけをほんとうだと信じることができる。自分自身の想像力に対するなんという忠実さ!
人間の情感は揃わないもの。だから必ず何らかの綻びが生まれる。多くの縦糸と横糸を合わせながら最高の技術をもって丹念に織り上げた布でさえ、どこかしら「ずれ」や「ゆがみ」のようなものがでてくる。それを無理に消すのではなく、いかに全体の中で折衷、調和させ、美の中へと取り入れてゆくかというところにアートはあるのかもしれない。
初出:ウェブマガジン「アパートメント」2017年4月11日(一部改稿)